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大津京周辺の伝承

志賀の花園

 天智天皇6年(667)におかれた大津宮の花園といわれているが、場所は明らかではない。平安時代の勅撰和歌集『千載和歌集』には、祝部宿禰成仲の歌として、楽浪や志賀の花園見るたびに昔の人の心をぞ知るを載せているが、古来、歌枕として数多くの和歌が詠まれた。
   享保19年(1734)の『近江輿地志略』には、錦織村から見世村の間であろう、と推定している。なお、現大津市立志賀小学校は、明治8年(1875)の学校創立に際して、志賀の花園にちなんで、校名を花園学校と命名した。

   なお、現大津市域のうち、瀬田川以東(瀬田・田上・上田上・大石)を除いた部分は旧滋賀郡に属したが、郡名であり県名でもある滋賀(志賀)の地名は、南滋賀(南志賀)・滋賀里のあたりが発祥地である。明治22年の町村制施行に際して、滋賀里・南滋賀・錦織・漣・山上・山中の6村が合併して滋賀村と名づけられ、昭和7年に大津市と合併するまで存続した。
   平成18年に大津市と合併した旧志賀町は、昭和23年に学制改革で創立した和邇・木戸2村(翌年小松村も加入し、3村)の組合立中学校に命名するにあたり、木戸出身の相撲行事の祖とされる志賀清林の名からとって志賀中学校とし、昭和30年にその3村が合併するにあたり、学校名から町名をとって志賀町としたものである。
   平成18年に志賀町が大津市と合併し、同じ市内とはいえ全く別の場所に、名称の由来を異にする志賀小学校と志賀中学校が併存することになった。

清井と無垢井

 南志賀には、今も清井・無垢井という地名が小字名として残されている。清井は、天智天皇の大津宮で使われた御用水との伝えがあり、以前は美しい清水が湧き出ていたという。そしてこの泉の近くに鎮座していた「清井の宮さま」は、明治初年に滋賀里の八幡神杜境内に移され、二の宮と呼ばれ信仰されたとのことだが、今は同社にそれらしい痕跡もない。
   また無垢井は、大津宮時代に産湯の水として使われた霊泉だという。清井は京阪電鉄南滋賀駅の東南方のあたり、無垢井は志賀小学校のグラウンドから南側あたりが小字の場所だが、現在では人家が建ち並び、伝説の地の面影はない。なお、南志賀には、ほかにも北の井・生水などの井泉に関係する地名が残されている。

金殿の井

 天智天皇は都を近江に移してまもなく病の床に就かれた。そのとき重臣であった中臣金(なかとみのかね)の夢に、都の西方の大木の根から湧き出る清水を汲んで天皇に奉れとのお告げがあった。そこで中臣金が宇佐山山中に分け入ると、お告げどおりの泉があり、さっそく天皇に飲んでいただいたところ、病気はたちどころに快方に向かった。そこで、この泉を「金殿の井」と名付けて賞賛した。
   後世、源頼義が宇佐八幡宮を創建したとき、この泉の水を人々に拝受させ、霊験があったという。この神水は諸病に功験があり、特に八月初旬の土用の日にいただくと特に効き目があるとのことで、現在も霊泉祭が行われている。

三井寺の閼伽井(あかい)

三井寺の閼伽井
 園城寺(三井寺)金堂西側に閼伽井屋(あかいや)があり、中に仏に供える水(閼伽)を湧出する井泉が湧き出ている。この閼伽井は天智・天武・持統の三天皇の産湯に使われた井泉という伝えがある。また弘文天皇の産湯に使われたともいい、高穴穂宮にちなむ景行・成務・仲哀の三天皇であったともいう。

   園城寺はもともと弘文天皇の勅願寺とも大友氏の氏寺だったともいい、大友皇子(弘文天皇)の子の大友与多麿が父の供養のために創建したとの記録もある。当初「御井寺」とも称していたが、貞観元年(859)智証大師円珍が園城寺を訪れたおり、大友都堵牟麻呂(つとむまろ)にその名の由来を尋ねたところ、三天皇の産湯に使われた井泉、つまり「御井」があることによると答えた。大師はこれを聞いて深い感銘を受け、三皇浴井の意と三部灌頂の閼伽として使用することから、御井の字を「三井」に改めて寺号としたといわれている。

   実際は天智・天武・持統の三天皇とも、また弘文天皇も大和のお生まれなので、大津で産湯を使われたということはありえないが、天智天皇と大津とのかかわりからそのような伝説が信じられてきたのであろう。
    また『日本書紀』天智天皇9年の3月に「山の御井の傍らに諸神の座を敷きて幣帛を班つ」とある御井は三井寺の閼伽井であるという。そうすると寺院としての創建以前に、大津宮時代の祭りの庭であったことからの名称であろうか。あるいはその根源にもっと古くからの清泉信仰があったということになろうか。

崇福寺創建の縁起と金仙滝

 滋賀里の西方山中にある崇福寺跡の谷筋に、金仙滝と呼ばれる小さな滝と霊窟がある。この地は崇福寺建立にまつわる有名な伝説が残る地でもある。『今昔物語』に次のように伝えられている。『扶桑略記』『三宝絵詞』などにも同様の記事がある。

   天智天皇はかねて寺を建立したいと考えておられたが、そのことで願をかけたその夜、夢に一人の僧が現われ「乾の方角(北西)にすぐれた良い所があります」と告げた。目を覚まして外をご覧になると、乾の方角に光が輝き、あたり一帯を明るく照らし出していた。翌朝使いを遣わして光を放っていた山を訪ね、奥に分け入っていくと深い洞窟があり、怪異な老人がいる。天皇は自らそこに行き老人を訪ねると、老人は「ここは昔仙人の住んでいた霊窟です。さざなみや長等の山に・・・」といって、消え失せてしまった。そこで天皇はこここそ捜していた尊い霊地だと考え、ここに寺を建てることに決められた。
   翌年正月に崇福寺が建立され、丈六の弥勒の像を安置したが、その開眼供養の日、天皇は、自ら右の薬指を灯籠とし、その指を切って石の箱に入れ、灯籠の土の下に埋められた。寺を建てるための整地の際、地中から3尺程の宝塔が発見されたが、昔アショカ王が多くの塔を建てた、そのうちの一つだと知らされ、いよいよ誓願を深め、そのしるしに指を切って弥勒に奉ったものだということである。
   後の時代になり、その寺の霊験まことにあらたかであったが、清浄でない人には近寄り難く、谷に投げ落とされたりしたこともあったという。寺の別当が「この寺に人が参詣しないのはこの指のせいだ。掘り出して捨ててしまえ」といって掘らせると、たちまちに雷が鳴り風雨が激しくなった。掘り出したその指は、今切ったばかりのように鮮やかに白く光っていたが、まもなく水のように溶けて消え失せてしまった。その後、その別当はほどなく狂って死んでしまい、その後は霊験もなくなり、衰微していったということである。
                金仙滝 左側に洞穴が見える
            高穴穂神社

仲哀天皇産湯の水

 第12代景行天皇の晩年から第13代成務天皇の治世に、志賀の高穴穂宮を都とされたことが記紀に記されている。天智天皇より25、6代前の天皇である。大津市穴太がその伝承地で、景行天皇をおまつりする高穴穂神社が鎮座している。
   京阪電鉄穴太駅を降りて県道を越え、山手に進むと、右手に高穴穂神社のお旅所があり、その一角に、かつては清水が湧き出ていた井泉がある。この井泉で第14代の仲哀天皇が産湯を使われたとの伝えがある。仲哀天皇は成務天皇の御兄弟である日本武尊の皇子だが、高穴穂宮に都があった時代とのことから、そのような伝説が生れたのであろうか。今この泉は枯渇しているが、昔は産湯に用いる霊水を求めて、多くの人々が遠方から足を運んだという。
   なお、高穴穂神社の裏手には、大正15年建立の高穴穂宮跡碑が建っている。
 
 

 

 
 

 

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