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大津京周辺の遺跡

近江大津宮錦織遺跡

志賀宮跡碑
  近江大津宮跡の所在については江戸時代より諸説があり、論争が続いたが、近年に至るまでいずれとも確証はつかめなかった。昭和49年、錦織2丁目の住宅地の一角で行われた発掘調査により、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。続いて昭和53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域であったことが確実視されるようになった。その後10数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定して、その中枢部の構造も復原されるまでに研究は進展している。昭和54年7月に国史跡に指定された。

    昭和49年に発見された建物跡は、天皇の居所の内裏と政務を行う朝堂院とを分ける内裏南門であることが明らかとなり、復原すると東西7間と、南北2間で、その東西に掘立柱の複廊が付属している。この門の北側が内裏、南側が朝堂院である。門の真北には三方を塀に囲まれた庇付きの建物の内裏正殿がある。この建物は、復原すると東西7間、南北4間の建物になると推定されている。

志賀宮跡碑 碑文

 伝へて云ふ、此れ天智帝志賀大津宮の旧址為り。史を按ずるに、神祖の而後三十八世、天智帝と曰(まう)す。実に能く垂統を創業し、天地を経緯し百度を裁定す。近江朝令二十二巻有り、以て曽孫桓武奠都の基を開く。中宗と称すること確たり。地の形勢湖山を襟帯し、東北の咽喉を扼す。遷都以来幾変すと雖も、皇化其民を被ふ所、皞皞(こうこう)として方今雍熈の世の如し。豪戸列肆し舟車輻輳し、銭穀の権多く此に帰す。而るに其の宮址鞠(まは)りて茂草と為り、廃れて田畝と為り、湮滅して不明たり。真に有志の者に非ざれば、忍恣する所なり。頃者(このごろ)、大津士民宮趾を表せんと謀りて、諸(これ)を故老に詢り、諸を口碑に綴(手へん)る。今の滋賀村錦織里に御所内と称する地有り。一に祇園田と曰(い)ふ。方二町余、面陽に位す。古を聞くに竹林中巨巌竦立し、×(一字不詳)沸する清泉其下に出で、庭除に類するの勢あり。今に至り、往々断礎瓦片土中より出づる者あり。且つ此の一帯の地に勧学堂、皇子山、東大路、西大路等の号、存す。是を以て徴して皇居の趾と為し、是に於て石を樹て、諸(これ)を無窮に伝へ、以て盛徳大業を表はす。民の忘るる能はざる者なり。余特に帝徳の人の深みに入り、流沢の遠く且つ久しきを見る。又斯(これ)を嘉するは、挙げて風教に関はるなり。其の請ひに由りて之が為に記す。(原漢文)
明治歳次乙未冬十一月
滋賀県知事従四位勲四等   大越亨撰
官幣大社日吉神社宮司従六位 伊藤紀書
題字は山階宮晃親王の篆額。
裏に「建碑主幹 大津町長 西村文四郎」とある。

南滋賀町廃寺跡

南滋賀廃寺跡碑
 大津京跡の探索の過程で発掘された、天智朝当時の寺院跡。国指定史跡。かつては梵釈寺とも考えられ、大津宮そのものに比定されたこともあった。大津宮の内裏仏殿がここにあり、その跡に寺院が創建された(あるいは梵釈寺?)とする説もある。
    文献上は明らかではないが、崇福寺・園城寺前身寺院・穴太廃寺とともに、大津宮をめぐる四大寺院のひとつに数えられる。昭和3年・13年の発掘調査により、金堂を中心に塔・小金堂・講堂を配し、廻廊と僧房で囲む、川原寺式の伽藍配置となっていることが明らかにされた。平安時代まで存続したことが明らかとなっている。
  崇福寺跡碑
          崇福寺塔跡

崇福寺

 大津宮の乾(北西)の鎮めとして天智天皇の勅願により創建されたと伝えられる。「志賀の山寺」として、平安時代を通じて志賀越え山中の名所であった。
『扶桑略記』によると、天智天皇7年(668)の創建となっている。奈良時代に聖武天皇も参詣され、平安初期には、東大寺・興福寺・薬師寺などと並ぶ十大寺の一つとして朝野の信仰が厚く、弥勒信仰の聖地として繁栄した。その後火災・地震等で焼失・倒壊と再建を繰り返しながらも国家的な保護・崇敬が続けられていたが、鎌倉初期には園城寺の支院とされ、室町時代には廃絶に至った。
   大津京探索の一環として昭和3年・13年に発掘調査が行われ、3か所にわたる尾根上に主要伽藍が築かれていたことが明らかとなった。北尾根に弥勒堂、中央尾根に塔・小金堂、南尾根に金堂・講堂が比定され、周辺にも別の建物跡が発見されている。昭和13年の発掘調査の際、塔跡の心礎の穴の中に、仏舎利に見立てた水晶三粒が納められた舎利容器をはじめとする納置品が発見され、一括して国宝に指定され、近江神宮の所蔵となっている。
   なお近年、南尾根の建物群は、桓武天皇が天智天皇追慕のために建立した梵釈寺跡とする説もある。
榿木原瓦窯跡
蓮華文方形軒瓦(さそり瓦)
複弁蓮華文軒丸瓦

榿木原瓦窯

 昭和49年から53年にわたる西大津バイパス建設にともなう発掘調査で、白鳳時代から平安時代にかけての瓦生産遺跡であることが判明した。
   この遺跡は、型を使って粘土から瓦を形づくる作業をする工房と、それから乾燥させた後で焼成する瓦窯とで構成されている。焼成した瓦は、すぐ東方の南滋賀町廃寺で使用され、一部は崇福寺へも供給されたものとみられる。
   瓦窯は、白鳳時代の登り窯5基、奈良時代末から平安時代中ごろの平窯5基が入り交って3群をなしている。登り窯では、「サソリ瓦」と通称されている蓮華文方形軒瓦や複弁蓮華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦・丸瓦・平瓦などが焼かれている。平窯では、流雲文で飾る軒瓦や鬼瓦、丸瓦・平瓦などが焼かれた。
   この瓦窯群のうち最も遺存状態の良好な登り窯1基は、バイパス建設で現地保存が困難なため、そっくり切り取り、原位置から北方約25メートルのバイパスと主要地方道下鴨大津線の間の斜面に移して保存されている。
   工房跡では、長大な掘立柱建物跡が重複して6棟検出されている。7世紀後半から8世紀初めのもの2棟、8世紀前半ころの1棟、9世紀前半以降の3棟の3期に区分される。
 
 
 
 
 
 
 
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